[ 水口 名物瓢箪 ]
水口の名物である干瓢を作る様子が描かれています。
干瓢の原料である夕顔の実を運ぶ赤子を背負った娘、筵に座り夕顔の実を細長く削り取り、ひも状になった夕顔の実を縄にかけて干す作業が街道わきで行われています。
旅人が通る街道の反対側でも、干瓢づくりが女性の手で行われています。
[ 水口 旧・東海道から国道1号方面(2022 10 02) ]
[水口 名物干瓢]には特徴のある建物や地物が描かれていないので、どこで描いたのか見当がつきませんが、水口城下から外れた石部宿に近い街道沿いではないかと思われます。
水口の市街から外れると、水田が広がりその先には国道1号沿いに立地するチェーン店の看板と、山を切り開いて建てられた巨大な工場が良く見えます。
残念ながら干瓢の原料である夕顔を見かけることはありませんでした。
水田が多いので旧・東海道沿いにも用水路が流れ、水路の中にはシジミと思われる貝殻が多数見られました。
最近は外来種であるタイワンシジミも多いそうですが、このシジミは?
[ 水口 農業用水にいるシジミ(2022 10 02) ]
水口は小さいながらも城があり、宿場町としての面影に加えて城下町的な面もありました。
城といっても将軍家の宿泊施設として造られたような建物だったそうです。
現在も本丸を囲む堀は残っていますが、本丸は県立高校のグラウンドとして独占的に使われています。
軍事的な城としては、水口宿の東にある水口岡山城が本格的な山城で、このほかにも周辺には城や砦が多くあり、城の密度が高い地域だそうです。
[ 水口 水口城址(2022 10 02) ]
現在の水口は合併により甲賀市になりましたが、甲賀市は滋賀県内でも工場の立地が多く、県内一の製造品出荷額を誇っています。
新名神高速道路のインターチェンジが市内に3か所もあり、大阪・京都、名古屋のどちらへも数十キロという利便性があり、周辺人口も適度にあるので働き手の確保も難しくないようです。
数多くあった城や砦は樹木の中に隠れてしまいましたが、現在は山の上を大きな工場が占めています。
[ 石部 目川ノ里 ]
宿場と宿場の間にある立場で有名だった田楽茶屋の繁盛している様子と、店に寄ろうとする旅人が先を行く旅人を呼び止める様子が描かれています。
[ 目川 田楽茶屋古志まや跡(2022 12 16) ]
石部宿の題材になったのは、石部宿よりも草津宿に近い金勝川沿いの元伊勢屋といわれています。
このほかに、古志ま屋と京伊勢屋がこの地に店を構え、菜飯と田楽を提供していました。
目川の里は、青菜を炊き込んだ菜飯と田楽豆腐が名物といわれていますが、現代人から見ると菜食主義者の食事のようで、東海道を歩く旅人にとってあまり精のつかない食べ物に感じられます。
[ 石部 茶屋に似せた店(2022 10 02) ]
石部宿は野洲川が氾濫しても被害を受けない丘陵と平地の境に広がっていて、現在は石部宿の一角に[石部 目川ノ里]の茶屋に似せた造りの休憩所があります。
湖南市が設けた観光施設のようで、飲食店の少ない石部の町並みで喫茶や食事ができるので便利な施設です。
ソフトクリームを頼んだら「ご自分で作りますか?」と言われ、少々びっくりましたが、出されたソフトクリームを見ると、店員さんは作るのが苦手だったようです。
飲食店は旧・東海道よりも交通量の多い国道1号沿いに多くあり、人の流れに沿って飲食店が立地するのは今も昔も同じです。
[ 金勝川 左:旧堤防、右:新しく掘られた川(2022 12 16)]
目川の里の田楽茶屋跡は、現在は住宅になり「田楽発祥の地」の石碑と元伊勢屋跡の立札があるだけです。
「古志まや跡」「京いせや跡」の石碑も住宅の敷地内にありますが、往時は多くの旅人が立ち寄っていたようです。
現在、この辺りに目川という川はなく旧・東海道南側に草津川支川の金勝川が流れていて、目川は地名として残っているだけです。
金勝川も草津川と同様に著しい天井川で高い堤防がそそり立っていますが、下流から徐々に川を拡げ河床を下げる工事が行われ、新しい川の堤防はかなり低くなっています。
[ 天井川・大沙川(2022 10 02)]
水口宿から石部宿の間の旧・東海道には、天井川をくぐるトンネルが二つあります。
このうちの一つ大沙川をくぐるトンネルは、1884年に造られた滋賀県で最も古いトンネルだそうです。
[ 草津 名物立場 ]
名物の「姥が餅」を食べさせる店に集うたくさんの客と、店の前を駕籠かきと大きな荷を担いだ人足が行きかう様子が描かれています。
店の中では、扇子を使う人、姥が餅を食べている人、荷造りをしている人など様々な動きが見えます。
[ 草津 矢橋分岐(2022 12 16)]
「草津 名物立場」の舞台となったのは、草津宿から西へ外れたところに旧・東海道と矢橋湊への道の分岐点があり、そこにあった「姥が餅屋」と言われています。
うばが餅は餡で餅をくるんだ和菓子で草津宿の名物でしたが、残念ながら現地に「姥が餅屋」はなく瓢箪を扱うお店になっていました。
店の入り口に広重の絵が掲げてあったので、東海道53次草津の題材にになった場所だと気が付きますが、普通の住宅地なので意識してなければ通り過ぎてしまいます。
[ 草津 本陣(2022 12 16) ]
草津宿周辺の旧・東海道は、ほとんど拡げられずに沿道の建物が建て替わってますが、江戸時代の本陣が現存していて、内部を見学できるようになっています。
部屋数の多い大きな建物ですが鴨居が低く170㎝ちょっとしかないので、現在の平均的日本人男性は屈まないと頭をぶつけてしまいます。
また、窓がないのでの現在は電気による光で照らされていますが、昔はろうそくや燭台の光のみでさぞ不便なことだったろうと思います。
沿道は新旧取り混ぜた二階建ての建物が多くありますが、草津駅から次第にマンションに代わりつつあります。
中には10階を越えるマンションもあり、狭い旧・東海道を歩いていると建物の圧迫感を感じてしまいます。
[ 草津 旧・草津川(2022 12 16) ]
草津宿は草津川が琵琶湖に向かい流れていますが、著しい天井川なので1982年から2002年にかけて金勝川合流点から琵琶湖まで放水路が造られました。
旧河道は水が流れることがなくなったので、川の下をトンネルで通っていた道路を拡げるため堤防が切り開かれたり、公園になったところもあります。
東海道と分岐した中山道だった道は、いまだに旧・草津川の下にあるトンネルを通っています。
江戸時代はトンネルがなかったので、堤防をのぼり川を渡っていたようです。
この頃の草津宿と草津川のジオラマが草津宿街道交流館にあり、往時の様子がよくわかるようになっています。
[ 草津 草津宿のジオラマ(2022 12 16)]
天井川は大雨のたびに山から土砂が流出し川底が上がり、あふれるのを防ぐために堤防を嵩上げすることが繰り返され、周辺よりも高い位置に水が流れるようになった川で、水害防止のために人が造り出しが産物です。
滋賀県内の天井川では水害を防ぐため、新しい川(放水路)が掘られたり川幅を拡げ河床を下げる工事が行われています。
河川改修が進むと川の下のトンネルは不要になり、いずれは取り壊される運命です。
[ 大津 走井茶店 ]
走井とは水が噴き出す井戸のことで、その水を天秤桶に汲み入れる人や、名物の餅が並ぶ茶屋で休んでいる旅人が画面の左に描かれています。
画面右側からは牛にひかれた三台の荷車が米俵や柴を載せて、茶屋の前を通り過ぎようとしています。
[ 大津 月心寺の走井(2022 12 17)]
「走井」は井戸というより泉や湧水に近い存在です。
この場所は滋賀県から京都府に向かう逢坂で、旧・東海道は国道1号になり「走井」は月心寺の中にあります。
描かれていた茶屋はなく、国道1号は峠を越える車が通過するだけの道となっていて、殺伐とした感があります。
月心寺にある「走井」は水が湧き出すことはなく苔むした緑の井戸になっていました。
[ 大津 国道1号脇のミニ公園の車石(2022 12 17)]
「大津 走井茶店」は広重の東海道五十三次で唯一牛車が描かれています。
東海道は幕府により車の往来が禁止されていましたが、大津~京都間は例外で人馬が通る道と牛車が通る道が分けられていました。
牛車が通る道は深くえぐられて雨が降ると牛車はぬかるみで立ち往生し、人馬が通る道と大きな段差が生じ物資輸送の難所となっていました。
この状況を改善するため心学者の脇坂義堂が1805年に一万両をかけ、三条から大津までの12kmに花崗岩の石を敷き並べ、牛車の通行に役立てました。
敷き詰められた石は「車石」と呼ばれ、車輪が通った部分がすり減って凹んだ形になっています。
国道拡幅の記念に造られたミニ公園で「車石」を見ることができます。
江戸時代に入りようやく日本でも車輪のある輸送器具のための道が造られましたが、車輪が通る部分にだけ石が敷き並べられた道で、しかも単線だったためすれ違いができず午前午後で上り下りを使い分けていたそうです。
[ 大津 山科付近の旧。東海道(2022 12 17)]
天智天皇御陵入口から日ノ岡峠ピークにかけての旧・東海道は国道1号から取り残された区間ですが、旧・東海道約500kmの中で最も街道らしさを失った道のように感じます。
住宅地の中は単なる区画街路の一つになり、峠付近も狭い道沿いに住宅が建ち並び、車一台が通るのが精一杯の幅しかありません。
東京日本橋から京都三条までの旧・東海道をたどる中で、人里離れた街道が廃れるのはやむを得ないと思いますが、終点京都三条を目前でこのような状態になっているのはちょっと残念。
[ 京師 三条大橋 ]
京都鴨川に架かる三条大橋の先には京の広い家並が山裾まで広がり、山の中腹には清水寺とその門前の家屋が木々に囲まれています。
三条大橋の上は、旅人の一群のほか、荷を担ぐ人足、笠を持たせ歩く女性、橋の上から川を眺める人など多彩な人々が描かれています。
[ 京都 三条大橋(2022 12 17)]
京都三条大橋は高欄だけが木製の橋で、到着したときは工事中でした。
広重が描いた視点から見るためには、近くのビルに入らなければならず地上から精一杯手を伸ばして撮影してみました。
三条大橋の先に見えるのは、鴨川沿いの川端通りに並ぶ建物ばかりで、清水寺を見ることはできません。
三条通りは蹴上にあるレンガの発電所あたりから、両側にビルや家屋が建ち並ぶ鴨川へ至る通りで、旧・東海道が拡がって現在の道になっているので、緩やかなカーブが入り街道だったことを偲ばせる線形になっています。
蹴上付近は4車線の道路ですが途中から2車線になり、さらに三条大橋を渡り200mほど行くとアーケードのある歩行者道になってしまうので、比較的すいているように感じます。
[ 京阪京津線 大津市内(2022 12 17) ]
現在は三条通りの下に地下鉄東西線が走り京阪京津線が乗り入れてますが、1997年10月までは京阪京津線の電車は三条通りの路面を三条大橋まで走っていました。
大津市内には、京阪京津線が一般の車と一緒に路面を走る区間が残っていて、信号を守り車の間を徐行しながら走っている姿を見ることができます。
路面電車ではなく普通の線路を走る電車が道路を走る姿が見られるのは、関東では江ノ島電鉄(鎌倉市・藤沢市)で見られますが、道が狭いので電車が来ると車は徐行か一時停止です。
[ 蹴上 インクライン(2022 12 17) ]
昔は鉄道と道路のほかに、琵琶湖疎水を利用して蹴上と琵琶湖を結ぶ船が物資を運んでいました。
今では疎水の水は主に水道水の供給と発電に使われ、船による輸送は行われていません。
蹴上にある船を上下させるインクライン(傾斜鉄道)の跡地は、南禅寺境内にある水路閣(疎水のレンガ造高架橋)とともに、多くの観光客が訪れています。
[ 京都 瑞泉寺 豊臣秀次の墓(2022 12 18) ]
三条大橋は東海道の終点であり華やかな感じがしますが、鴨川の河原では数多くの処刑も行われました。
三条河原では豊臣秀吉の甥である秀次の妻子39人が処刑され、その跡地の近くには供養のため瑞泉寺がたてられ境内には「前関白豊臣秀次公墓」の碑が立てられた一族の墓があります。
瑞泉寺は先斗町もある繁華街にありますが、観光客も少ない静かなお寺です。
<参考資料>